今、この文書を読む人の中に、戦争を体験した何人がいるだろうか?
全くいないとも言える。
私も戦後生まれであり、友人も、子どもの頃に満州からの引き揚げの記憶が
かすかに残っているだけと聞いている。
この70年がとても短く感じるのは、目まぐるしいほどの経済成長の流れに乗って、
過去を振り返る余裕さえなくしていたのかもしれない。
94歳になる私の父は、学徒出陣で徴集され、
空軍の暗号解読に従事していたと聞いています。
終戦が伸びていたら、特攻隊に入る運命でした。
そんな父のお尻には、5センチぐらいの銃弾を取り出した跡が残ってました。
消毒液も、痛み止めも無いので、火で焼いたナイフのみで取り出したそうです。
木を口に噛み締め、歯を食いしばって、「痛いか?」って聞かれたら「痛くありません!」と
大声で言いながら耐えた。なんて笑いながら話してくれました。
配給のタバコと交換したお饅頭の美味しかった話など、
面白おかしい話だけは幼かった私達に時々聞かせてくれました。
戦争の生々しい話は一度だけ話してくれました、
それは、基地を爆撃された時、
B29の戦闘機を操縦していたのは女性だったこと。
爆音と共に吹き飛ばされ、後ろを振り向いたら
一緒に逃げていた仲間達の姿がなかったこと。
その時、日本が負けると確信したと言っていた。
沢山の悲惨な体験をしてきたのでしょうが、
それ以上聞くことはできません。「もう話したくない。」と言って。
言葉に出せない程、苦しい体験だったのだといつ頃からか感じていました。
でも、母は忘れてはいけないからと、子供の頃から私たちに何度も、
戦争当時の話をしてくれていました。
大切な人を送る側の女性の視点で。
女学校時代の勤労奉仕。気丈な母は、体調崩した妹を、
交渉して背負って連れて帰ったといっていた。
でも、仲のよかった従姉妹は勤労奉仕をしていて体調崩しても帰ることができず、
戻された時には死を待つ状態だったと聞いてます。
叔母さんがいつまでも死んだ娘を離さず泣いていたことも忘れられないと。
大好きな兄の戦死。その時祖母は、戦死公報を受け取っても、
涙も見せず、毅然としていたそうです。
でも、自分の死の床で最後に叫んだのは戦死した息子の名前だったと聞いてます。
迎えに来てくれたのでしょうね。
待つ人たちの嘆き。
母が東京の下町で小学校の先生をしていた時代。
正しいと思って教えていたことが、
否定され、教科書を真っ黒に墨で塗りつぶした日。
理不尽と思いつつも、洗脳され受け入れていた悔しさ。
知らないままではいけない。
危険だ、恐怖だ、だから闘うなんて、言われるままでもいけない。
これだけ情報があるなら、回避できる方法も考えられるはず。
国を動かす人を選んでいるのも私達。
身内を誰が戦争に送りたいでしょうか?
NO と言いたい。
母から、受け継いだ、大きな想いです。
世界では現実として今も戦争がある。
いつでも、犠牲になるのは、一般市民達。
これから世界が、どこへ向かうのかせめてこの敗戦の日にでも考えてなければ。
今日の笑顔が、これからも続くように、戦争の悲惨な記憶は、風化させてはいけない。
今あるのは、あの戦争で亡くなり、苦しんだ人たちの土台になりたっていることも
忘れてはいけない。
今日8月15日 奈良は雨。
高円山の大文字焼きを遠くで見ながら亡き人を偲び、送ります。
(ムラカミ)